保守点検

「異常なし」という言葉に込めた、プロの意地

ここまで、エレベーターメンテナンス技術員としての「技」と「心」について綴ってまいりましたが、今回お話しするのは、それらすべての活動の結果として私たちがお客様に提出する、一枚の書類についてです。

それは、「点検報告書」。
その中の判定欄に記される、「異常なし」。

この、何気なく読み飛ばされてしまうかもしれない文字に、私たち技術員がどれほどの覚悟と、プロとしての意地を込めているか。今回はその「言葉の重み」についてお話しさせていただきます。

【「何も起きなかった」という価値】
エレベーターの保守点検という仕事は、特殊です。
私たちが完璧に仕事をすればするほど、エレベーターは何のトラブルもなく、空気のように当たり前に動き続けます。故障して修理に駆けつければ「助かったよ」と感謝されることもありますが、日々の点検で「異常なし」と報告し続けている間は、私たちの存在は意識すらされません。日常的に使われる機器の隠れた裏方の人間です。

しかし、この「何も起きなかった」ことこそが、最大の成果なのです。

点検報告書の「異常なし」という文字は、決して「何も見つかりませんでした」という意味ではありません。
「0.1ミリの段差を調整し、ベアリングの微かな異音を封じ込め、レールの潤滑を最適化し、長年スパナで全てのボルトの締結を確認した。その結果として、この機械は今、完璧な安全状態にあることを私が保証する」
という、重い宣言なのです。

私たち技術員が報告書を提出するとき、その重圧は相当なものです。もし、自分の見落としで明日このエレベーターが止まったら。もし、お客様を閉じ込めるようなことがあったら。そう考えると、ペンを持つ手が震えることさえあります。その恐怖を知っているからこそ、私たちは現場で妥協を許さないのです。

【行間を埋める「目に見えない作業」】
報告書には、チェック項目が並んでいます。
「巻上機」「制御盤」「ワイヤーロープ」「扉開閉装置」……。それぞれの項目にチェックを入れていく作業は、事務的なルーチン作業に見えるかもしれません。しかし、そのチェックの一つひとつには、何時間に及ぶ格闘の記憶が刻まれています。

例えば、「ブレーキ動作:良」というチェックを入れるために、私たち技術員はどれだけの時間を費やすでしょうか。
ライニングの摩耗を計測し、スプリングの強さを調整し、プランジャーの動きを清掃し、実際に何度も試運転を繰り返して停止時のショックを確認する。その膨大なプロセスの結晶が、報告書上のわずかなレ点なのです。

【変化に気づく「異常なし」の連続性】
点検報告書は、一回きりのものではありません。数ヶ月、数年と積み重なっていくことで、初めてその真価を発揮します。
私は現場に入ると、必ず過去数年分の点検記録を読み返します。

「三年前から、このモーターの絶縁抵抗値がわずかに下がり始めているな」
「一年前の夏、ブレーキのストロークを微調整した記録がある」

こうした履歴の連続性の中にこそ、未来の故障の芽が隠れています。
前回の点検で「異常なし」と書かれた項目であっても、その「異常のなさ」の質が変化していないかを確認する。昨年と同じ「異常なし」であっても、それが摩耗によるギリギリの正常なのか、あるいは整備によって取り戻された盤石の正常なのか。

その推移を見守り、必要であれば営業担当者と連携し、「今は動いていますが、次の点検で部品交換を提案します」という一筆を添える。この「予防」の視点こそが、報告書という紙に命を吹き込むのです。

【「異常なし」が書けなかったあの日】
重ねてきたキャリアの中で、どうしても「異常なし」と書けず、お客様に頭を下げてエレベーターを停止させたことが何度もあります。
「まだ動いているじゃないか」「今止められたら困るんだ」と、お叱りを受けることも少なくありません。

しかし、そこで妥協して「異常なし」と嘘をつくことは、技術員としての魂を売ることに等しい。
「今は動いていますが、私の指先が『次は危ない』と言っています。だから、止めて修理させてください」
そう言い切る勇気もまた、プロの意地です。

【終わりに】
エレベーター保守点検という仕事は、地味で、汚れ、時に過酷な現場です。しかし、そこには数値やマニュアルだけでは語り尽くせない、人間の五感とプライドが詰まった世界があります。

今日、あなたが乗ったエレベーターが、何事もなく静かに目的地に着いたとしたら。
その影で、一人の技術員が点検報告書を閉じ、少しだけ誇らしげに機械室の鍵をかけたことを思い出してください。

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